筆者は東南アジアに数年住んでいます。自分の意思で日本を飛び出して海外で働く選択をしました。
海外に住むと大変なこともありますが、絶大な恩恵もあります。
それは視野が広がること。
日本に住んでいればおそらく見えなかったことが見えるようになります。
筆者は日本が好きですし、日本人であることに誇りを持っています。また日本から脱出するべきだ!なんてことは言うつもりはありません。
ただ、日本人は海外の視点や考え方をもっと学ぶ必要があるとは感じています。
そして海外在住組は同じ日本人として同胞に伝えていけることがあるはず、と勝手ながら思っていたりもします。
本記事では筆者が海外生活で得た5つの学びをご紹介します。
目次
①日本の常識は非常識

海外に住んだことがある日本人のほぼ100パーセントが感じることです。
日本の常識なんて世界では通用しないことが多いです。
ところが日本人は日本の常識を世界共通の常識だと思っている人が多いように感じます。
海外から日本を訪れる観光客が増えていますが、日本に来るなら日本に従え!と価値観をまず押し付ける。
一方で自分たちが海外へ出ると、日本流をベースにあらゆることを判断しがちです。
日本の考え方が基準で、基準と異なることは「基準外」と判断します。自分たちの基準がずれている、という考え方には至りません。一般的な日本人の中では「日本の常識=正しい常識」という方が多いように思います。
しかし一歩海外へ出れば日本の常識なんて逆に非常識になります。
コンビニやレストランで完璧なサービスをしてくれる学生アルバイトなんてレア中のレア。
時間通りに運行する電車よりも、時間通りに動かない電車の方が世界には多いかもしれません。
仕事で上司に報告や相談をすること自体を「上司の時間を奪う悪行」として考える国だってあります。
世界にはあらゆる国があり、あらゆる人種、あらゆる言葉があります。そしてその分だけ文化があり常識も変わります。
頭ではわかっていても、どうしても拒否反応を起こしてしまう人が多いように感じます。
日本は2000年以上も独立を維持しており、民族も言葉も一緒。さらに島国に鎖国と海外との交流が少ない国だったので仕方がないのかな?
なんてことはなく、もっといろいろな価値観があることを理解していく必要があります。
②人種が変わっても人間は変わらない

先に挙げた通り、外国人は言葉も文化も違い常識も違う。
でも面白いのが「人種が変わっても変わらない部分」もあるということです。
例えば男はいつまでたっても永遠に子供、なのは外国人も一緒。おばさんがおじさんに「いつまでたっても子供ね…」と呆れるのは同じです。
答えはいらないから話を聞いて!っという女性が多いのも同じ。
歳をとっておじさんやおばさんになるとみんな同じ顔や雰囲気になるのも同じ。
メーカー勤めは少し地味だし、広告代理店勤めは見た目も派手な人が多いのも同じ。
女子高生が学校の後にガールズトークをするのが好きなのも同じ。
思春期の男の子がすべからくスケベなのも同じ。
女性が靴やカバンに情熱を捧ぐのも同じ。
おばちゃんが近所の世間話好きなのも同じ。
「結局人間ってそこまで変わらないのかも」と感じます。
外国人との違いを認めつつも、人間として同じ部分があることを理解できたのはものすごくよかった。
肌や目の色、言葉や習慣が違っても相手を同じ「人間」として見ることができるようになりました。
③世界は不平等である

特に新興国に暮らしていると強く感じますが、世界は不平等の塊です。
様々な問題が語られる日本ですが、日本人に生まれ落ちた時点で地球上位5パーセントくらいのラッキーな層に入ってると思った方がいいです。
よほど不幸な星の元に生まれ落ちない限り、まじめに働けば衛生的な生活ができます。
また少し努力すれば大金持ちにはなれなくとも車を買ったり、旅行に行ける程度の余裕がある暮らしができます。いわゆる先進国の中流層です。
しかしあなたが発展途上国に生まれ落ちていたらどうでしょう?
どれだけ努力しても、日本人の平均年収にたどり着けないかもしれません。
例えば私の周りには優秀な東南アジア人がたくさんいます。
例えばAさんという人がいたとします。
年の瀬は30歳。その国の一流大学でマーケティングを専攻し英語はペラペラ。海外の顧客を相手に代理店で専門職としてバリバリ働いています。
日本でいうとエリートの部類に入るAさんですがそれでももらえる給与は10万円くらい。
何のスキルも経験もない、英語すら話せない日本の新卒よりも低い給与です。
Aさんがさらに努力をして、部長クラスまで昇りつめればようやく日本の新卒と同じ給与をもらえるかもしれません。
同じ努力をしても得られる対価は生まれ落ちた国やエリアによってある程度自動的に決まってしまいます。
別の言い方をすると、世界では自分よりも圧倒的に優秀な人たちが、自分より低い待遇で働いています。
逆のパターンもありますが、日本人にとっては「自分より優秀だけど自分より待遇が悪い人」の方が世界には多いでしょう。
仕事だけではなく教育でも起こり得ます。
日本では義務教育で国民全員が一定の教育を受けることができます。一方海外では学校にいけない子どもというのはまだまだたくさんいます。
また、日本では専門知識を身に着けたければ日本語でたくさんの知識を学ぶことができます。一方海外では国によって「専門領域の教科書がない」こともあります。
「勉強したいことを母国語で勉強できる」というのは限られた国に与えられた特権なんです。
世界は不平等。
世の中には努力だけでは覆せないこと、追い越せないことが腐るほどあります。
これを知ってどう考えるかは人それぞれですが、認めざるを得ない事実です。
④差別と区別、違いは違いのままで良い

最近の日本の世論はうるさく、ちょっとしたことでも「それは差別だ!」と指摘されることが増えています。TVCMでも少し表現が偏ると消費者から指摘が入り放送停止に追い込まれることもありますね。
海外で生活してみて、この差別に関する考え方が変わりました。
それは
- 「差別」と「区別」は違う
- 「区別」は決して無くすことができない
- 相手や自分を区別することは悪いことではない
ということ。
よく差別が話題に上がる時に「相手を分け隔てることなく、すべからく同じように対応するべきだ」と言われます。
が、これはいつも無理があるよな、と感じます。
例えば目の前に障害を持つ方がいたとします。はたして健常者とまったく同じように接することが良いことなのでしょうか?
知的障害のある方に、健常者と同じ環境や仕事をお願いすることが果たして正しいことなのか?
障害を持つとできることに制限が生まれます。それは本人や周囲がいかに無視しようとしたところで埋められるものではありません。
その「できないこと」はお互いが認めた上で関係を気づいていくのが正解だと思っています。埋められないものは埋められない、と認めること。
もちろん「機会」はできうる限り平等に与えられる努力は双方すべきです。ただ、過剰に「同じく接すること」にこだわりすぎる必要はないと思います。
人種や宗教に対しても同じです。
生まれた場所や宗教、文化が違うと「どうしてもお互いに分かり合えない部分」というのは出てきます。
例えば、私が住んでいる国にはイスラム教の人が多くいます。
イスラム教の人はお酒を飲みません(飲む人はいますが、原則的には飲まない)。一方日本人はお酒が好きな人が多いし、ビジネスツールとして酒の場を使うことも多いです。
イスラムの人からすると、酒を飲んで酔っ払った状態で仕事の話をする日本人は理解できません。一方お酒好きな日本人からすればお酒を一生飲まない生き方を理解できないかもしれません。
でも、こんなものはお互いにどう歩み寄ったところで理解できないものです。話し合っても無駄なレベル。
大切なのは理解しなくてもよいので、違いを認めて尊重することです。
私がイスラム教の経典であるコーランを読んだところで、なぜお酒を飲んではだめなのか、は理解できません。
でも彼らにとってはダメなんです。理由はコーランに書いてあるから、そして彼らがイスラム教だからです。
That’s All。それ以上でもそれ以下でもない。でもそれでいいんです。
海外で外国人と触れる時には、相手と違うところを無理に理解する必要はないし、無理に埋めようとする必要はありません。
そこに差別につながる「優劣」を持ち込まなければOKです。
違うものは違う。これはしょうがないですよ。
相手を区別した中でどうやって良好な関係を作るのか?が重要です。
⑤家族の大切さ

東南アジア全体でその傾向があると思いますが、筆者が住む国では特に家族との繋がりを大切にしています。
夫婦が一緒に住むことは当たり前だし、結婚した後も両親や兄弟と近くに住みたがります。ほぼ毎週両親含めた家族で過ごす時間を持とうとします。
また、祝日は宗教的な行事が多いのですが、そのたびに家族で集まり行事に参加します。
仕事でも、家族との時間をなくしてまで会社への貢献や出世を選択する人は多くありません。多少所得が少なくても家族とともに過ごせることを重視する人たちが大多数です。
彼らを見ていると「何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。
もちろん生きるためにはお金が必要だし、仕事はお金を生み出すために必須です。お金があることで体験できることが増えることも事実。
でも人間は社会的な生き物で、結局は家族や大切な友人との繋がりが最も尊い。それがあればもしかしたら他のことはたいして重要じゃないのかもしれない…と考えさせられることが多々あります。
日本人が家族を大切にしていない、というつもりは毛頭ありません。ただ、もっと家族との繋がりをオープンにし、尊重してもらえる社会になればいいな、と感じています。